銘鳩:白雪号


「今も人気の白雪南部」

私の鳩舎にも1000kシングルの直仔が何羽か居たことがあります。

白いレース鳩でつくば700kの優勝を目指している私にとっては思い入れの深い系統でした。

ただ実績が上がらなかった為に今は居ませんが、とにかくその姿は子供の頃に憧れていた在来系そのものだっ

たと記憶しています。

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白雪南部は、盛岡南部から生まれその代表鳩「白雪号」によって有名になった。

当時羽色はシルバーと言っていたが現在のシルバーとは異なりW(ホワイト・レッド)と思われる。

この白い雄が今も人々の記憶にとどめられているのは、悲運の生涯と気高く美しい姿に他ならない。

「このように血筋の良い星の下に生まれ、銘鳩として後世までたたえられながら、悲運の一生を終えた鳩はある

まい」(中根時五郎)。

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中根 時五郎氏。岩手医大の学生だったころ盛岡高農にいた南部系に出会った。

その生涯に感銘を受けた中根は「愛鳩の友」に「白雪号ものがたり」を発表する。

それに拠りながら一生を追ってみよう。


「白雪号」の父は盛岡高農40号栗、母は盛岡高農16号灰栗、東京の五十島(いがしま)鶴松が盛岡江農よりこ

2羽の払い下げを受け、大切に飼育する。

そして昭和5年(1930年)6月1日と3日に卵が生まれる。



翌日、鳩好きの学生が五十島鳩舎を参観に来て鳩舎の戸を閉め忘れて帰った。

両親2羽は外に飛び出し、そのまま帰って来なかった。

残された卵を、まだ学生だった高木俊夫が持ち帰り、ちょうど同じころに生んだ鳩の卵と取り換えておいた。

そして生まれたのが「白雪号」である。



このトリの「水晶のように美しい目は血統の良さを表現し、俗に銀目とと呼ばれる美しい虹彩であった。しかも

白色系統にありがちな、羽軸の繊細さは見られず、むしろ他に見られないほどの立派な羽があった」(中根)

翌6年春、初めてレースに参加し、仙台―東京300kで優勝。


次の年の春も蒲郡200kで優勝、300kを経て、明石400kで10位入賞。

そして最終レース、600kを戦うべく、放鳩地・福山駅に送られる。


翌朝、3つの放鳩カゴがホームに並べられる、そして放鳩直後、白雪号は福山駅に到着しようとすべりこんできた

貨物列車に巻き込まれ、地面にたたきつけられる。

放鳩者は走り寄って拾い上げ「ああこれは白雪だ。惜しいことをした。可哀相なことを」と言って応急処置を施し、

東京に連れ帰った。


高木の必死の介抱で命はとりとめたが、折れた右翼は垂れ下がったままだった。

その後、高木が飼鳩を中止するのに伴い、当時の鳩界の第一人者鍵村英治鳩舎に移される。

鍵村は白雪号が自分の鳩舎に慣れたと思ったころ、舎外に出し失踪。


幸い飛び込み先からの連絡で無事手元に戻すことができたが、その後再び逃げ出す。

それから1年後、東京の小鳥屋で白雪号が売りに出されていると伝え聞き1円50銭で買い戻す。


そして11年の昭和16年(1941年)白雪号にそっくりな子供が生まれる、鍵村は「2代目白雪号」と命名。

2代目はその後、中根時五郎鳩舎に渡るが、昭和20年7月の空襲でほかの南部系などとともに焼死する。


しかし中根はかねてこのことあるものと予想し、種鳩の直仔を新潟の知人の鳩舎に疎開してあった。

そのため中根の白雪南部系は絶滅をまぬがれた。


一方、白雪号はその後栃木県の鳩舎に移され、戦争のさなか波乱に満ちた生涯を終えた。


前にも書きましたが私の東日本CHを今年帰った「白雪姫」には白雪南部系は入っていません。

白雪号の血は永遠でありたいものです。